コラム

  • 2020.07.07
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岡耕平先生のこどもの見立て学 その5

「帰納と演繹」

今回はこどもに何かの概念を理解させようとするときの2つのアプローチについて書こうと思います。

うちには小学6年の長男と小学4年の双子の兄弟の3人の男児がいます。
先日、双子の弟が宿題の割り算がわからないと半泣きになっていました。私が「例えば10÷3は、幾つで、どれくらい余る?」と聞くと「......9?」と返事が返ってきました。あー、なんとなくわかっているけどなんとなくしかわからないんだなと思いました。「じゃあ10÷3ってどういう計算か、わかる?」と尋ねてみると、今度は「10を3つに分ける」と返ってきました。

こどもが割り算で混乱するのは、最初に「いくつに分けられるか」と考えてしまうからだろうと思います。例えば食パンが1斤あったときにそれを3つに分けて、というとこどもは簡単に分けるでしょう。そこで、「この(1斤の)食パンを10としたとき〜」みたいな置き換えで理解しようとして、結果的に混乱するのだろうと思います。パンは3つに分けられるので。余りませんから。

要は10を3つに分けるのではなく、10から3がいくつ採取できるかという考え方にならないと、この混乱はおさまらないんですね。学校ではたぶんちゃんとそう習っているはずなのだけど、こどもは自分が理解したと思ったら別のやり方を聞いていなかったりします。

知的障害のあるこどもの中に、かけ算(九九)までは(詰め込まれて)できるけど割り算はできない、という子が多い理由はこれだと思います。まず、「10から3がいくつ採取できるか」という教え方の切り替え部分で、教える側がつまずくケースがあります。プロならともかく親が教えようとしてつまずくケースが多いです。知的障害のあるこどもを対象にするとき、さらに難しいのは、これを言語を使わずに教えることが必要になるということです。ここが教える側のつまずきポイントになります。

なお「その子の人生に割り算ができることは本当に必要ですか?」という疑問については「必要かどうかはその子が決める。できないよりできた方がいい。教える側の問題で理解できていないのであれば、なおさら。できなくても割り算的思考が生活で役立つこともある。ただ、できなくても幸せにはなれる」というのが私の考えです。

さらに、重要な教える側のつまずきポイントは、演繹的に教えようとしてうまくいかないケースです。つまり、要点を教えて、そこさえ理解させれば、後は自分ひとりで対応できるようになるはずだ、的な考え方に基づいて教えようとするケースです。間違ってはいないとは思います。ただ、なぜかうまくいかないんですよね。

演繹的に教えてうまくいかないと、多くの人は「一を聞いて十を知ることが難しいなら、せめて一を聞いて三は知って欲しい」的な方向で教え方を工夫するようになります。これがうまくいかないと、教える側がだんだん腹立ってくるわけです。ここまで噛み砕いて教えているのにどうしてわからないんだ、的に。

自分の経験論に過ぎないのですが、演繹的ではなく帰納的に(かつ言語を用いず)教える方が効果がある場合があります。

十をさせてみて一を気づかせる的な感じでしょうか。もちろん普通はできないことを何度もさせられるとこどもは何もしなくなります。だからこの部分には別の教えるためのテクニックが必要なんですが。

昔、私は小規模作業所に入り込んで、知的障害のある人たちと一緒に仕事をしながら研究をしていた時期が2年近くあります。今でいう就労継続支援B型と生活介護型の中間みたいなところでした。ある作業所では利用者のほとんどが入所時に「数を数えられない」にもかかわらず、数年すると「数が数えられる」ようになるわけです。利用者はほぼ全員が養護学校(いまの特別支援学校)の出身で、そこではさんざん数の数え方を教わってきていて、それでも数えることができないという人たちでした。そういう人がどうして数えられるようになるのでしょうか。働けば、作業をすれば数えられるようになるのでしょうか。調べてみると違いました。他の作業所の同じような障害をもつ人たちは数えられないままの人がほとんどだったからです。ではなぜその作業所だけ数えられるようになるのでしょう?

調べてみて驚いたのですが、職員は誰も数え方を教えていなかったんですね。職員も、なんで数えられるようになるのかわからない、他の作業所も時間が経つと数えられるようになるんだと思っていた、と話していました。

で、私はその人たちがどうやって数えられるようになったのか観察して探ろうとしたわけです。結局はっきりとしたことはわからなかったのですが、おそらくこれだろうという要因がありました。それは、利用者さん同士が教え合っていたということです。利用者さん達は昼休み、自分たちだけでトランプをして遊ぶんですね。ババ抜きを。私はそれを後ろからずっと観察していたのですが、ルールがめちゃくちゃ緩く運用されてるんです。隣の人のカードは覗いたり、間違ったペアでそのままカードを山に捨てたりしていました。間違ったことをするたびに、利用者同士で「それはダメ」「そのカードは違う」「ちょっと私に見せてみて」「このカードとこのカードが同じ」「これでいける」などと介入しまくるんですよ。全くルールも何もわからない人がカードを持っているだけで、勝手にみんながああでもないこうでもないと介入してきてゲームを進めてくれるわけです。

で、そうするうちに数が数えられるようになっている。

誰も、概念を教えたりしてないんですよ。ひたすら「それは×」「こっちなら○」と教えているだけなんです。その膨大な繰り返しの先に概念の理解がある。勝手に概念を理解するんです。これは私にとっては驚くべきことでした。

Zeaman & Houseの1960年だったか1964年だったかの論文で知的障害のあるこどもとないこどもに単純な弁別学習をさせる実験があります。弁別学習というのは、ものすごくザックリいうと、あるものとあるものが違う(同じ)ということを区別できるようになる学習のことです。例えば、○と○は同じだけど、○と●は違うとわかるということです。色が違いますよね。

こういった弁別課題をさせると知的障害のないこどもは数回で学習が成立するけれど、(重い)知的障害のある子は何度やっても正答率が偶然の域を超えない。ところがずーっと続けているとあるとき、弁別できるようになるんです。これはおそらく、何に注目すればいいのかということに「気づいた」のだろうと解釈されます。

一度「気づいて」しまうと、それ以降の学習が成立するまでに必要な試行回数は知的障害のない人と変わらなかったというのが、その実験結果でした。

重要なのは、あるポイントから学習成立までの試行回数に知的障害の有無による差がなかったということなんです。つまり、知的障害のあるこどもがつまずいていたのは「弁別できない」のではなく「何に反応すれば良いのかわからなかった」ことが原因と考えられるんですね。

わたしが冒頭に書いた演繹的に教えるやり方というのは「これとこれを区別するのがポイントだよ。わかったね。さぁ、次の問題やってごらん」という教え方です。多くの人にとっては、そう教わった方が分かりやすいだろうと思います。

でも、皆がそうではないということです。何度も繰り返させ、何がポイントか自分で気づくように仕掛けるという教え方もあるということです。もちろん、繰り返しの中でやる気を失うような方法は全く効果がないと思いますが。

この話が何にでも当てはまるわけではないとは思います。
でも、こういうことがあると知っておくことは重要だと思います。

滋慶医療科学大学院大学 医療管理学研究科 准教授
岡 耕平

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