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  • 2019.03.01
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医療現場のつぶやき : 迷惑(?)な問題(?) 個人から見るか?社会から見るか?

第6回「迷惑(?)な問題(?) 個人から見るか?社会から見るか?」


社会の関係性の中で生まれるものが、個人的なものとして帰属されてゆく。そういうことが目立つようになってきたなぁと感じています。

ひきこもり、ゲーム依存、そして前回も取り上げたコミュニケーションの障害など。本来ひとりで「誰にも『迷惑』をかけなければ」「問題」にならないはずなんです。カッコつきで『迷惑』「問題」としたのは、受け手の解釈次第でどうにでもなる事柄だからです。

こういう本来受け手の解釈次第でどうとでもなることが「外的な客観的基準」を設けられることでもっともらしく「問題」とされ、最終的には「治療」の対象とされてしまう。
いや、わかるんですよ。周囲の人も意地悪で問題視しているわけではないというのは。本当に心の底から問題だと思っているのだということもわかります。わかりますけど、「それは個人に帰属すべき問題なの?」と思うわけです。

人間は社会の関係性の中で生きているので、周囲の人がどう思うかということを気にせずに生きることはできないのですよね。「周りからどう思われようが関係ない」と宣言して生きるような人もいますが、極めて稀ですし、そういう人が本当に周りの目を気にしていないかというとそれも疑わしいです。

私だけかもしれませんが、最近「なにか『問題』を抱えている人の立ち居振る舞いによって『迷惑』している身近な他者が、その人に対してもっともらしい理屈を添えて制約を設け、縛ろうとする」というような場面をよく見聞きします。このときの制約というものが厄介なんですよね。他者によって個人が制約されるわけです。しかもその他者は「その人のためだ」と思って個人を制約しにかかるわけです。

人間は社会の中で生きているわけですから、互いの主観で良い悪いが決まり、互いに影響を及ぼそうとしあう、というのはわかるんです。私がずっと引っかかっているのは「その影響の及ぼし方」に非対称性があるということです(要するに対等ではない)。そして、「その制約が根本的な解決策になっていない」というケースが多いと感じているためです。

「あなたは『迷惑』をかけている」といって他人が迫ってくる。そして迫ってくる人の方が「正しく」、そして多数派でもある。
正しさの向こう側には「間違い」があるわけではなく「別の正しさ」があるということを前提にした方がいいように思います。多数派の正しさが少数派の正しさに勝るというこの構図に疑問を感じます。

すいません、熱くなりすぎました。医療の話に戻します。

世界保健機構(WHO)が1980年に定めた国際障害分類(ICIDH)という障害の分類定義があります。それが2001年に国際生活機能分類(ICF)に改定されます。
https://www.mhlw.go.jp/houdou/2002/08/h0805-1.html

ものすごくザックリとまとめると、ICIDHでは障害を個人の機能・形態障害(impairment)によって、能力障害(disability)が生じ、その結果として社会的不利(handicap)が生じるという一方向の因果関係を背景にした分類モデルだったんですよね。このモデルだと、社会的不利のある人について、その原因を辿ればそれは個人の機能形態障害に起因すると解釈できるモデルなんですよね。このような、個人という単位で障害をみるモデルとして、ICIDHは障害の個人モデルと評されています。この点を変更するため、ICFでは社会的不利というよりも社会への参加や活動の制限こそが問題なんだとされ、そしてそういう参加への障壁や制限は個人と環境の相互作用によって影響を受けるんだ、とされたわけです。これを踏まえ、ICFは障害の社会モデルと評されています。

このように、障害という事象は個人モデルから社会モデルで理解されるようになりました(実際は不十分)。話を戻しますと、冒頭に挙げたような現在社会を賑わせている(?)問題の多くは社会モデルの中で理解されるべきだろうというのが私の考えです。ところがまだまた個人モデルで理解される機会や論調が多いなあというのが私の感想です。もうそろそろ時代が変わったことを認めませんか?

滋慶医療科学大学院大学 医療管理学研究科 准教授
岡 耕平

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